クロスケのブログ

この人の彼女って苦労しそう

2017-03

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周防正行『それでもボクはやってない』

◆こういうのが、おれはだいきらいです

映画のことじゃなくてな
人が人を裁く、ということ
「汝等人を裁くな 裁かれざらんためなり」(マタイによる福音書/第七章)
という言葉が聖書にはあるけど
やっぱり、人は人を裁くのだ

『それでもボクはやってない』では
痴漢冤罪と戦うフリーターが主人公
物語なので、真実は明確にされており
ここでは、検察や法廷が
とりあえずの戦いの相手として描かれている

社会というものは
真実に基づいた正当で公正な行政によって
運営されている、という前提で機能しています
みんなそう言うし、そう思おうとしてる
そういうことにしておかなければ成り立たないのが
社会というものみたいです

子供の頃は、裁判所というものは
確定的な証拠と公正かつ賢明な判断を下すプロによって
あら不思議、どんな事件もまるっと解決みたいな
そんなとんでもなくすごいところだと思っていた
だって人を裁くんだもの、そうに決まってるじゃないですか

ところが、実際にいろんなものを読んだり見たりしていると
裁判所でやっていることは、検察側と弁護側がお互いに
味方側を取り繕い、敵側を非難しあって
感情込めたり傍聴人の数を揃えたりして
裁判官の心証をよくしよう、同情を誘おうって、そんなことだ

先生の前で喧嘩の責任をなすりあう小学生みてえなのな

裁判官の心証って、なんだ?
お行儀のよさとか、真に迫った供述とか、傍聴人の数とか
そういうもので左右される判決って、なんなのだ
そんなだったら、もしおれが起訴されたときは
どんな罪状だろうと確実に有罪になる自信あります

おれだったら
「自分も悪いとこあった」とか、言っちゃう気がする
あるだろうな、普通は
どっちかが全く責任なくて、もう一方が100%悪いなんて
そんな状況のほうが、珍しい

でも裁判で、そういう譲るみたいなこと言えなさそうですね
徹底的に潔白を主張して、全部相手のせいにする
そういうようなことをするのがセオリーらしい

たとえ結果として、真実にたどり着けたとしても
そういう対話からなにかが得られるとは思えないがなあ
そういうことをすると、失うものがかなり多い気がする

何ヶ月も何年も争ってるうちに
被告も原告も、記憶はどんどん薄れていくだろうに
ひたすら敵愾心を燃やして、相手の揚げ足を取りあいつづける

死んでもかかわりたくない世界だなあ
そういうことをしてまで守りたいものというのは
おれには、たぶん、ないです

映画の中では
検察が、ウソついたりしてた
ウソついてまで、有罪がほしいのだ

ウソとは言わないまでも
都合の悪い事実は隠して、都合のいいことだけを並べる
そういうことをお互いにやっているわけだ
真実へのプロセスでは、ないよな、これ

真実や内省とはもはやなんの関連もない
法廷の中だけに存在する「有罪」「無罪」という概念をめぐって
事実関係が武器として場当たり的に使役されている
どうにもやっぱり、裁判所というのはすごいところだ


◆証言が、裁判を左右しているようだけど
人間って、事件当時を正確に記憶して
一切の主観や思惑抜きで説明できるものなんか

主観からは、逃れられないんじゃないだろうか
みんな「わたしは客観的に判断している」って
口を揃えて言っているけれどな

嘘をつく、ということもあるし
思い違い、ということだってある
検察側や弁護側にあれこれ言われてるうちに
自信のない記憶でも、確信として思い込んじゃうような
記憶回路のハプニングというものもいくらでもありそう
記憶って、変わるものらしいし

おれ、人間そのものは、信用してません
信じるかどうかは、相手と気分と都合で決めておる
「この人だったら裏切られても許せるかな」
というようなことが、おおむねの判断材料

そう考えている身としては
人間の言葉で左右されたあげくに
あまつさえ数百万単位のお金や数年からの懲役を
人に課す、法廷というものがちょっと理解できない

極端なはなし
裁判官が「なんかこいつの顔ムカつくな」
なんて理由で有罪にならないともかぎらないわけでしょう
前例を作りたくないとか、立件が多くてチャッチャと済ませたいとか
弁護人がやる気なさそうに見えるとか、被告人がよく噛んだとか
そんなんで決まりかねない

こんな曖昧なシステムで、日本は管理されてるのだな
警察も、司法裁判所も、職業人の私的な感情や都合に
おもっくそ左右されてる

しかも、あとで冤罪だとわかったところで
国家や警察が責任をとってくれるわけでもない
訴え得の、訴えられ損
訴えられたほうは、評判悪くなってなにかと不都合なのに
訴えたほうはプライバシー保護、おとがめなしってなっとくいかんな
冤罪だったときは、自動的に訴えた側を罰したらどうか

社会の中で管理されてる以上
交通事故に逢ったり快楽殺人の犠牲になるのといっしょで
冤罪で、国家に殺されるリスクも
いやいやながらおれは受け入れてるつもりです
人間と付き合うことを選んでいる以上
理にかなった最低や、公正な処置というものは望めない

「李下に冠を正さず」で
司法に目をつけられないように、ひっそりやるしかないかな
こういうとき
社会というものは、まだまだ発展途上だなとおもう


◆人は人を裁けるのか
それは、人は人を理解できるのかという話でもある

どういうつもりで、それをしたのか
何がほしくてそれを選んだのか
人がやることに、明確な理由があることのほうが
実は、珍しいんじゃないでしょうか

裁判においては、誘導や断定なども経て
あらゆる行動が、説明されてしまう

ごはん党だけど、たまたまその日は朝食にトーストを食べたとか
うっかり間違えてちがう駅で降りたとか
漫画嫌いなのに、なぜか『ドラゴンボール』を持ってたとか
そういう、「なんとなく」や「うっかり」や「なぜか」を
裁判においては、許容しないらしい
説明できないようなことは、ほらみたことか、と
説明できないだろう、嘘だからだ、とどんどん突っ込んで
疑わしきは罰せよ、で有罪が演出される

本当に、人のすることを見ただけで
その動機や性格まで理解できるもんなんだろうか
お話づくりのうまい人が
曖昧なところを都合よく創作して、つじつまを合わせてしまって
それで「わかったことにする」というのが実情じゃなかろか

裁判に限った話じゃなく、人間ってそうですね
作品を読んだだけで、作家の人間性をうんぬんしたり
趣味や国籍といった断片的な情報で人格を推測したり
障害者や病人というだけで心のきれいな人だって思ったり
人は、やたらと他人の人間性を理解したがる

わかんのかホントに?
人って、人の考えることがわかるの?
シャーロックホームズみたいに
どうでもいいようなゴミひとつで、犯人の人物像がわかったりする?
おれにはとてもそうは思えないのだけど
社会というのは、そういう前提のもとに
自分にはそれができると思っている人たちが、動かしているらしい

人を理解したがる観衆を納得させるために
つじつまの合った説明が求められ
その説明に、犯人をあてはめていく
それはやっぱり、作家的な作業であって
真実へのプロセスではないなあ
求められるのは、「真実」ではなく「それっぽい説明」
人は、そんなに都合よくつじつまのあうものではないぞ

なんでその日に限ってトーストにしたのか
なんで散歩中にその角をまがったのか
なんでその日に自転車を修理に出したのか
なんで部屋の隅のそのゴミを、捨てずにとっておいてるのか
みなさん、はっきり説明、証明できます?
できなければ、むこうが勝手に説明しちゃいますよ
裁判所ってそういうところですよ

本人の「なんとなく」よりも
なんの関係もない第三者の「物語」が、社会では支持される
なんだか暗澹とした気持ちになってしまったな


◆かといって
じゃあ、どうすりゃいいのか、というのは見えません
おれにわかるぐらいなら苦労はないですね

一方で冤罪を糾弾され
一方で犯罪への厳処を要求されている裁判所というのも
そうとう、たいへんだ

冤罪やめろって言われても
どうやったら正確に、誰もが納得できる真実を解き明かせるのか
数万年の歴史を経ても、人間はそこにたどり着いてないし
システム自体
権力機構に生かされている施政者や官僚たちがあって
そうそう変えられない
そうそう変わられたって、困るよな、やっぱり

ただ、勝手に考えていることなのだけど
人間は
「人間には正誤を判断する能力がある」
という前提を、一旦でいいから、捨ててみたらどうだろ

コンピュータ、てものができた
これ、将来的には、システムを任せられないかなあ
司法裁判から軍事力から
手塚治虫の『火の鳥 未来編』みたいに
コンピュータに人間をすべて管理させるの
火の鳥では、コンピュータがなんかプライド高くて
コンピュータ同士で喧嘩したりして
それじゃコンピュータの意味ねえだろって
子供心に思ってましたけどね

猛反発にあうだろうな、コンピュータなんかに管理されたくないって
人間の心の機微もわからない機械なんかに
裁判なんかまかせられない、てみんな思うんだろう
四角四面な対応じゃあ、いろんな問題が出てくるという心配もある

でもじゃあ、人間なら、できてるのかといったら
できてないわけだろう
できてることにして、権力で押し通してるのが現状
だったら、最初からコンピュータにでもやらせたほうが
おれなどは、あきらめがつくと思ってしまうのだけどな
少なくともコンピュータは、利益や感情に左右されないぞ
コンピュータが相手なら憎んだり恨んだりしなくてすむから
気が楽です、おれは
コンピュータ制御には一貫性があるから
あらかじめそれに対応した生活姿勢もできてくると思うし

行動を立証する明確な証拠が不充分なのであれば
それは、本来、人間の能力の範疇を超えた事件だと思う
人間の手に負えるものではないな、真実っていうのは
だから、はっきりした証拠がなければ
人間は手を引くべきだと思うのだけど
社会秩序の手前、そうもいかないのも実情

わかんないのに強引に決めなきゃいけないんだったら
もう、コンピュータにやらせたほうが、ブレがなくていい
どうなんだろ
一度やってみる価値、あるんじゃないですか
コンピュータの進化をまだまだ待つ必要はありそうですが


◆ともあれ
『それでもボクはやってない』、すごく面白かったです
考えてみることは面白いものだなあ
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ケヴィン・リマ『魔法にかけられて』

◆ディズニーは好きかーッ

最新作
『魔法にかけられて』を、見てきました
上映終了直前の『ヒトラーの贋札』と悩みましたが
ヒトラーの方はむりに大画面で見る映画でもないなと思い
友人が狂ったように薦めていたディズニーに赴く

おれ自身も、かなり期待していた一品
おとぎばなしのお姫様が現実世界にとびこんでくるという
大人から子供まで楽しめる物語です

真実の愛を愚直に信じ、街中で唐突に歌い出すジゼル姫に
困惑しどおしの弁護士ロバート
おとぎ話での常識と
現実世界での常識がぶつかり合う、その摩擦が
とてもおもしろい
これは、決してこの設定だからできたというわけじゃなく
実際にも、立場や民族の違いで
こうした摩擦はたくさんあります
異なる常識、風習が根付く異郷を訪れたとき
われわれは誰でも、ジゼル姫になりうる
おれの目には、至極リアルな物語に映った

おとぎの国のお姫様を演じるエイミー・アダムス
同じく王子様を演じるのがジェームス・マースデン
ディズニーアニメのキャラクターを現実に演じるという試み
とても面白い演技が見られて、よかったー
二人とも現実のニューヨークの中にあって
至極滑稽で、それでいて違和感がない
あくまでオーバーアクション、あくまで真摯な演技
現実とアニメの乖離と融合というコンセプトは
ふたりの好演によってみごとに果たされた印象

王子様とリスの、現実世界での動きがすばらしい
特にリス最高
いろんな意味で、今回一番の立役者かもしれません

おとぎ話と現実のぶつかり合いは
かなり胸のすく形で終幕を迎える
子供には夢を、大人には希望を
人は夢の中では自由であり
その夢は現実と地続きなのであります

ディズニーには珍しく
大人の観客と、真っ向から向かい合った意欲作であることだなあ


◆3Dポリゴンを駆使したアニメがすっかり定着して
2D線画という手法を、とんとみなかった
昨今のディズニーアニメ

『魔法にかけられて』では
作中の、ほんの触り程度に限られているとはいえ
ものすごく久しぶりの新作2Dアニメを堪能
やっぱり、とてもよかったです
おれとしてはこちらの方がずっと好きなんですけど
今後、どうだろう、また作ってくれるのかしら
今回だけの、古いファンへのサービスに終わってほしくないぞ

ポリゴンも進化して
かつての弱点だった動きや表情の硬さが
このところ、かなり払拭されてきてるみたいだ
技術力とセンスで、いよいよ漫画の表現力に迫ってる
今後3Dアニメが主流になっていくのは
たぶん疑いのないところだと、おれはみていますが
それでも、やっぱり2Dアニメも続いてほしい

『魔法にかけられて』は、うれしい作品であったよ


◆ディズニー狂いの友人が言うことには
この映画には、ディズニーのこれまでの作品群への
オマージュがあちこちに散りばめられているのだそうで
『シンデレラ』『美女と野獣』『ダンボ』などなど
自社の映画を元ネタにしたパロディがいろいろあるとか

実のところ、ディズニーには疎いおれには
そのへんはあまりわからなかった
それが少々残念ではあります
でも、知らなくてもでんでん大丈夫な映画だ

ともあれ、ファンには非常に贅沢なつくりであるらしい
歴史と知名度を併せ持つビッグブランドだからできる
自社製品を総括しての、内輪ネタを網羅したお遊び
こういうの、2000年代から、多くなったような気がします

元来、作品作りというのは
固定ファンだけを相手にして閉じこもらないように
知らないと楽しめない恐れのある「内輪ネタ」は
避けるのが、おおむね普通ですね
けれど、このところ、ゲームやら漫画やらいろんなところで
ファンの知識に挑戦するような、ディープな作りの作品をよく見受ける
(もちろん『魔法にかけられて』のように、ファンでなくても
十二分に楽しめるように構成されていることも多い)

仮面ライダーとかの特撮番組では
歴代のヒーローが集結、なんてこのごろよくあるらしいし
任天堂のゲーム『大乱闘スマッシュブラザーズ』などは
自社の有名キャラクターを、無節操に全部ほうりこみ
ファンが喜ぶマニアックなやりこみ要素が満載だ

オタク、マニアという客層が定着して
こういうマニアックな内輪の遊びが
商業作品のセールスポイントとして成立するまでになった
それは、なんだかうれしいことに思えるな

映画や漫画やゲームが
現実の代替品としての表現にとどまらず
それ自体で、世界を構成できるほど深くなった
内輪に閉じこもって自己完結する不健全さを指摘した批判も
ひとつの観点から成立するかもしれないけど
おれにはすごく豊かなことに見える
たとえ一部のファンにしかわからないものでも
深く狭く、というアプローチが許容されるなら
エンターテインメントの地平はまた広がっていくんじゃないだろうか
普遍性という枷を外した表現という方向性には
とてもきょうみがあるな

念を押すようだけど
『魔法にかけられて』は、一部のファンじゃなくても
ぜんぜん大丈夫ですので

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Author:伊藤黒介
かけだしまんがかです

メールアドレス:
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